花輪城

花輪城(千葉県流山市下花輪)は、江戸川に沿って突出する標高16m〜20mの舌状台地の先端部に占地する(『東葛の中世城郭』)。

市内では深井城前ヶ崎城名都借城とともに存在した中世城郭の一つ。十六世紀戦国期に松戸市小金の小金城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城氏に属する城で、北を除く三方を、急な斜面に囲まれた細長い台地は、天然の要害といえる。
発掘調査により、台地を東西に区切る深さ3mの空堀と土橋が発見され、二つ以上の郭が連続する城郭形態(直線連郭式)の一部が明らかになった。
花輪城は、高城氏が滅亡した十六世紀末には、その役割を終えたと考えられている
(『花輪城址公園説明板』)。

城内にあった琵琶首観音堂は、かつて県道付近に本堂があった真言宗西福寺境内の観音堂。解体前に行われた調査によれば、十七世紀前半の建築様式を持つもので、茅葺きながらも三間堂であり、その規模や内部の装飾は当地の経済性の高さを推測させるものである。地域の信仰を集めた本尊は、「朝寝坊の観音」と呼ばれる等身大の観世音菩薩立像(天文八年銘 1539年)で、現在は市内桐ヶ谷の西栄寺に安置されている(『花輪城址公園説明板』)。

一説に、花輪城は高城氏の家臣・平本主膳正定虎が構築したという(『新川村誌』)。平本氏は、京都より小田原に下り後北条氏に属した小田原宇野氏に関連する一族であったとの考察もある(『東葛の中世城郭』)。

花輪城の中心部であった西福寺跡は、戦後の県道改修工事で取り払われ、土取りが行われたが、この部分だけが一段と高く、非常に展望がよかったという(『日本城郭大系』)。

城址は、公園として整備されている。比高はそれほどでもないが、江戸川・中川の低湿地を遠望できる台地上であり、郭・空堀・土橋などが残っている。県道・駐車場などとなって破壊された遺構もあるようだが、多少なりとも城郭遺構が確認できる貴重な史跡であろう。

(参考サイト:余湖くんのホームページ 城郭図鑑

(現在の航空写真)

(現地縄張図)

 

(【左写真】一の郭。公園として整備されている。【右写真】観音堂の礎石が残っている。)

 

(【左写真】土橋跡。明瞭に残っている。【右写真】土橋の空堀跡。)

 

(【左写真】土塁の痕跡が一部に見られるものの、はっきりしない。【右写真】公園石碑)

(城址遠望。中央の道路によって城の一部そのものが消滅したという。)

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