本能寺の変の動機

【明智光秀・四国説】

 

長宗我部元親、信長に恭順 本能寺直前の手紙発見
-平成26年6月23日-

戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日、発表した。

 信長は、四国は元親の自由にさせるとの方針から、一部しか領有を認めないと変更。手紙は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。

 手紙は1582年5月21日付。直後の6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が信長の方針転換に納得しなかったことが原因とする説もある。信長はこの手紙以前に出兵を決めており、県立博物館の内池英樹主幹は「(織田側が四国に攻め入ろうとする)直前の様子が明らかになった」と評価している。

 美術館などによると、見つかった手紙は、室町幕府の13代将軍足利義輝の側近、石谷家に関わる古文書「石谷家文書」の中にあり、47点が三つの巻物になっていた。手紙で元親は、阿波(徳島)の半分と土佐しか領地として認めないとした信長の命令に従うことを明らかにしており、信長との合戦を回避しようとしていたことが分かるという。また、命令に従い阿波の一部からは撤退したが、海部城、大西城は土佐の入り口にあたる地域なので、このまま所持したいと記載。信長が甲州征伐から戻ったら指示に従いたいとも記していた。

 82年1月11日に斎藤利三が元親の義父石谷光政に宛てた手紙も見つかった。信長の方針転換に納得しない元親が軽はずみな行動に出ないように光政に依頼する内容だった。

 見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。(『スポニチ』記事)
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四国説については、古く高柳光壽氏が可能性を示唆していたものである。その後、藤本正行氏、鈴木眞哉氏、桐野作人氏がその有用性を主張されている(『信長は謀略で殺されたのか真説 本能寺の変』)。

高柳氏らは、この四国説を一因とした、光秀の”野望説””単独説”を展開されているが、これ補強する、新しい史料の紹介と言うことができよう。

解釈

明智光秀はこれまで、長宗我部家と織田家との仲介役をしていたのであるが、その面目は丸つぶれにされた。しかし、長宗我部との衝突は、いずれ、致し方なく、予測のできたところではある。
しかしながら、腹心であり、元親と近しい斎藤利三が幕下にいることで、四国討伐の重役からは外されたことは看過できない。

このままでは自分には将来がない。そして、秀吉に負けていられないという野心もある。今までの面目をほどこせる機会はもう無いかも知れない。

長宗我部元親は信長への恭順を示している。でも信長はこれを滅するつもりである。

元親の親戚である斎藤利三から不満・不安も聞いている。利三はある意味、謀反を教唆さえしている。

他にも信長には納得のいかないことが多い。今なら身近な部下たちも、信長を討つことに反対はしない。

しかるに、一途、信長を討つのは、この本能寺においてしかないであろう。

変の前、光秀はこのように、自分の恩人を殺する決意を固めたのではないだろうか。

そして、今回の史料が非常に興味深いと考えるのは、

長宗我部元親と斎藤利三が、極めて緊密に連絡を取り合っていたことが確認できること

・長宗我部元親の進退は窮まっており、もはや信長に対抗しうる状況ではないことを自覚していたこと

が確認しえる点ではないだろうか。

そして、この書状は、明智光秀が謀反に及ぶに際して、その脳裏をめぐったであろう

家族・一族に対する敬愛、将来への不安、戦国武士としての思い出、織田家での辛苦、謀反を起こすことに対する苦悩・背徳感

などの中で、その一考に含まれたであろう”四国問題”を裏づけるものであると言いえるのではなかろうか。

 

諸氏の説を抜粋する。

高柳光壽人物叢書 明智光秀
「信長のやり方は全く光秀を無視したものといってよい。この四国征伐は光秀無視である。
(しかし)他家との間の前言取消しは戦国の常であったろう。だから元親だって別に不思議に思わなかったであろう。信長の勢力が拡大され、元親の勢力も拡大されれば、両者が衝突することは当然の帰結である。だから光秀としては、平和的交渉を行う場合は困る。けれども戦争となれば別に立場に窮するわけではない。だから当然のこととして受容れたであろう。
けれども誰が四国討伐の大将になるかということは問題である。光秀としては恐らくは自分が四国討伐の大将になるべきだと考えていたのではないだろうか。光秀は当然自分と思っていたその地位を長秀に持って行かれたのである。光秀がその前途を輝かしいものと思えなくなったであろうことは推察できないではない。」

桑田忠親明智光秀
「信長は、光秀があっせんした努力を無視し、元親討伐に踏み切った。元親は激怒したが、そんなことは信長の眼中にはなかった。光秀の面目はまるつぶれにされたのである。そこで、その屈辱をそそぎ、面目を立て直したかったのではあるまいか。」

小和田哲男明智光秀
「光秀は、この信長の四国政策の転換の過程を通して、信長がそれまで以上に秀吉寄りの態度を取りはじめことを痛感したであろう。かなり精神的に参っていたのではないだろうか。」

桐野作人真説 本能寺の変
「両者の取次役の光秀は板挟みになった。その頃、阿波の十河氏らが秀吉に救援を求めた。こうして秀吉の勢力が阿波に及ぶと、四国における光秀の影響力は相対的に低下する。失地回復のためには、自らが四国討伐の総大将になって、長宗我部氏を屈服させるのが一番だが、光秀の家中には長宗我部家中と親密な者がいて、四国攻めにはかかわり難い立場にあった。こうして光秀は、四国討伐軍から外され、織田信孝・丹羽長秀による四国討伐が始まろうとしていた。」

藤本正行氏、鈴木眞哉信長は謀略で殺されたのか
「六月一日以前に、光秀と重臣したの間で謀反の謀議がされたことを明示する史料はない。しかし、光秀と重臣たちが、信長に対する種々の不満を話し合うことはあったはずだ。不満が共有されていれば、光秀が謀反を打ち明けた段階では、重臣たちが同意する下地も十分できていたはずだし、光秀もそれを前提に決意を示すことができたはずである。光秀が、信長打倒という点で一致しうる立場の重臣たちを動かし、自主的にことを運んだことからこそクーデターは成功した。そこに黒幕が介在する余地などない。」


--桐野作人氏のtwitter(平成26年6月23日-24日)--

メディア対応に追われた。岡山市の林原美術館が公表した石谷家文書の件です。斎藤利三と四国問題を重視した拙著があるため、コメントを求めらた。とくに斎藤利三宛て長宗我部元親書状は重要。ただ、各種報道を見ていると、元親が信長に恭順したというニュアンスになっているのに違和感あり。

元親が信長に恭順したなら、光秀もそれを尊重すればよいわけで、謀叛というリスクを冒す必要ありませんし、この元親書状は四国説の根拠にはなりえず、むしろ、信長と元親の和平を示しています。
元親書状は信長の四国国分令への不満を示しており、利三に長宗我部氏の根本利害を死守したいと訴え。元親は信長の「御朱印(四国国分令)に応じ」ると述べていますが、実際はその条件を出していて無条件に従うわけではないのです。その条件をどう取り扱うかが光秀=利三の「取次」としての試金石。2人は信長が満足する形での「御披露」をしなかればいけないのですが、元親の条件闘争で微妙に。

今回の石谷家文書、細かい点まで含めると興味深い。信長が長宗我部弥三郎に一字与えて信親と名乗らせた一件も年次比定に再考の要あり。また『元親記』『南海通記』などの二次編纂物が意外と正確であることも判明。あと、元親は信長に闕字を使っている。「御朱印」「上意」「御馬」など。

一部報道で少し誤解されるようなコメントになってて不本意なのですが、私は今回の石谷家文書が四国説の決定的な根拠だとはいえないと述べました。元親の条件闘争に光秀=利三が苦慮するかもしれないですが、だからといって謀叛というのは論理の飛躍。2人がそこまでして元親を庇うのかということ。

 城と古戦場

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