島原城

森岳城とも。

島原城(長崎県島原市城内)の地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところ。

この瑞祥の地に、大和五条から入封した松倉重政島原城を築く。元和四年(1618)着工、4〜7年の歳月をかけて完成、同時に島原城下町も整備したという。
重政は当時の築城の名人といわれ、『松倉記』によれば大和国宇治郡の二見城、肥前国の唐津城、平戸城、五島の福江城、讃岐の丸亀城、豊前国の小倉城などの縄張りをし、石積みの指導をしたことが記録されている。
破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸、北へ二の丸三の丸を配置し、要所を三層櫓で固め、外郭は4kmにわたり矢狭間をもつ練塀で取囲んだ。
四万石の大名には過分で、ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られる(『城址案内板』)。

以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と419代の居城とされた。その間、寛永十四年(1637島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきた(『城址案内板』)

明治維新で廃城になり、払下げ・解体されたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続き、昭和三十九年(1964)天守閣が復元するなど昔の面影を取戻しつつある(『城址案内板』)。

(城址の航空写真)

 

(【左写真】復元天守閣(破風のない層塔型天守で創建当時は珍しかったという)【右写真】天守と巽櫓

 

(【左写真】天守から島原湾を眺める。【右写真】巽櫓(現在は彫刻家・北村西望記念館)

 

(【左写真】丑寅櫓(民具資料館) 【右写真】西櫓 

 

(【左写真】扇の勾配 【右写真】多重の折れを見せる本丸石垣 

 

(【左写真】本丸と二の丸の空堀 【右写真】二の丸(現在は文化会館)

 

(【左写真】二の丸と三の丸の空堀 【右写真】御馬見所(藩主が藩士の訓練状況を見るためのもの)

(武家屋敷)

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