生実城

北小弓城、小弓城、北生実城とも。

生実(おゆみ)城(千葉市中央区生実町)は、千葉市街から南南東約6q、小弓城の北約1.5qに位置する。東から西へ突き出た標高20−30mの下総台地の西端にあり、北と南に谷津を配し、西は断崖で蘇我野を望む要害の地形である(『日本城郭大系』)。

生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられた(『生実城跡案内板』)。

天正十八年(1590)原胤栄が、徳川家家臣・酒井家次との野田十門字野の戦いで戦死するまでの52年間存続した。
その後、一時幕府の直轄領となったが、寛永四年(
1627)森川出羽守重俊が生実藩一万石の藩主となり、明治初頭まで生実城の一郭に陣屋を構えていたという(『生実城跡案内板』)。

生実神社脇の土塁と空堀が残るのみである。

(付近の航空写真)

(現地案内板)

 

(【左写真】城址である生実神社。【右写真】神社の脇に残る土塁の残片。)

 

(【左写真】神社脇の空堀跡。【右写真】大手口跡)

 

(【左写真】生実池越しに見る主郭跡〔主郭は重俊院の裏手になる〕【右写真】重俊院〔森川氏墓所〕)

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