久留里城

標高145m、比高100m。

康正二年(1455)、甲斐源氏・武田信満の子・信長は鎌倉公方・足利成氏の命を受け上総に侵攻して庁南城に居住した、その子・真里谷城主・信高が支城として築き、信長の三男・信房に与えられた。築城当時の久留里城は現在の北方の峰続きにあった(『日本の名城・古城事典』)。

天文六年(1537)安房の里見義尭に攻められて開城。義尭によって現在の地に改修され、上総進出の本拠とした。その後北条氏との間で争奪戦が起こり、一度は北条方に奪われるものの、幾度となく北条方の包囲軍を撃退している。北条氏滅亡後に徳川譜代の大須賀忠政(榊原康政の嫡男)が三万石で入城し、近世城郭に改修。代わって土屋忠直が入城するが、延宝七年(1679)の土屋氏改易を機に廃城となる。その後、寛保二年(1742)黒田直純が上野沼田から移封されると、幕府から五千両を借り受けて城を再建。以後、黒田氏九代の居城となり明治を迎える(『日本の名城・古城事典』『日本城郭大系』『久留里記』)。

現在は城山公園として整備されている。本丸には模擬天守が建ち、二の丸は城址資料館となっている。遺構は堀切・土塁・曲輪跡などが残っているが、一部の堀切で改変されてしまっている箇所もある。

 

(【左写真】模擬天守(遺構保存のため、本来の天守台の横に建設された)【右写真】天守台跡 )

 

(【左写真】本丸土塀跡 【右写真】井戸跡 )

 

(【左写真】二の丸 【右写真】久留里曲輪 )

 

(【左写真】波多野曲輪 【右写真】薬師曲輪からの眺望 )

 

(これらの地形は堀切跡だという。)

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