真里谷城

真里谷(まりやつ)城は、房総半島の中央部から西流して東京湾に注いでいる小櫃川の中流域にあり、武田氏の詰の城としての性格をもっていたと考えられる(『日本城郭大系』)。

康正元年(1455)甲斐源氏・武田信満の子・信長(甲斐武田氏の分流)は鎌倉公方・足利成氏の命を受け上総に侵攻。翌年に真里谷城、庁南城の2城を築いて支配体制を確立し、真里谷城には嫡男の信高を置き、自らは庁南城に入った。信長、信高の死後、庁南城に嫡男の道信が入り「庁南武田氏」となり、真里谷城には弟の信興が入り「真里谷武田氏」となり分かれていった。

真里谷武田氏は信勝、信保(恕鑑)のときに最盛期を迎えるが、一族の内訌により衰退。天正十八年(1590)信高のときに小田原の役を迎え、徳川家康に攻められ開城降伏。真里谷武田氏は没落し、廃城となった(『日本の名城・古城事典』『日本城郭大系』)。

城跡は「少年自然の家(キャンプ場)」になっているが、比較的遺構は残っている。しかし主郭以外の郭は整備がされておらず、藪化していて残念。

(現地案内図)

 

(【左写真】主郭跡 【右写真】主郭土塁 )

 

(【左写真】主郭虎口 【右写真】城山神社 )

  

(【左写真】二の郭 【右写真】三の郭 )

 

(【左写真】物見台 【右写真】物見台からの眺望 )

 

(【左写真】腰曲輪 【右写真】堀切跡 )

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