深江城

深江城(長崎県南島原市深江町馬場名)の築城について、詳しい記録は見当らないが、深江入道蓮忍の後を承けた安富頼清が深江浦地頭職として文永二年(1265)に鎌倉幕府の命令を受けて下向し、天正十二年(1584)落城までの319年の間に、構築・整備された安富氏代々の居城とされる(『城址案内板』)

安富氏は、元寇の役に奮戦したり、新日吉観音寺合戦で足利尊氏の軍忠状を貰うなど代々活躍した源氏の武将だった。

天正十一年(1583)有馬氏が佐賀の龍造寺氏に謀反した折、安富氏が佐賀方に加担したので、有馬・島津連合軍の猛攻を受けたが、籠城して撃退した堅固な城。
しかし、翌天正十二年(1584)二月二十四日「沖田畷の戦」で龍造寺隆信が討死したので、
12代安富純泰は佐賀に向って、一族郎党を引連れて退城し、その後は「深江氏」を名乗って佐賀市水ヶ江町に代々居住する。
元和四年(
1618)松倉重政が島原城を築く際に、当時の石垣もすべて持ち去って、現在は根石が点在するだけになった(『城址案内板』)。

本丸付近は住宅地となっており、撮影は断念。おそらく遺構は期待できないであろう。

(城址の航空写真)

(現地案内板)

城址碑。背後の住宅地が本丸跡。

 

(【左写真】出丸跡(熊野神社となっている) 【右写真】出丸内の寂しい土塁跡 

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