神代城

鶴亀城とも。

神代城(こうじろ・長崎県雲仙市国見町神代丙)は、自然の地形を利用し、南側以外は潮の干満する深い泥土に囲まれ、高さ約六丈、広さは東西約二町、南北約六町あり、代々築城して神代兵部大輔貴益の時代に本丸まで整備。その出城として西に古部城、尻無城、東に切通城、大坪城、浅井城があった。空には鶴が舞い、潮の満ちる城の下には亀が泳いでいたというので、この名がついたとの伝説がある(『城址案内板』)

天正十二年(1584)三月、島原沖田畷における有馬・島津連合軍(南軍)と龍造寺隆信軍(北軍)との戦いで、濃霧に乗じて南軍は一気に北軍の本陣を急襲し隆信討死、これと同盟していた神代貴茂も深江の砦より急ぎ、この城に戻っていたが、多比良まで北上してきた南軍は、この城攻めの愚を知り、一計を案じて貴茂に和議を申し込んだ。単独では勝てないと貴茂も仕方なくこれに応じ従者を連れて和議の場所轟城に赴き和議書に押印した。南軍は一席の宴を張り夕刻貴茂一行の帰途これを犬の馬場で伏兵により謀殺(『城址案内板』)。

天正十五年(1587)、豊臣秀吉は島津征討のため、大軍を率いて九州に下向、この時鍋島藩初代直茂は、秀吉の許しを得て旧神代家の領地を神代分藩とした(『城址案内板』)。

ここも本丸周辺はかすかに遺構が残っているが、他は畑や私有地となっているようで深追いはやめた。本丸は神代神社となっており、土塁・空堀が残る。二の丸・三の丸は民家の畑となっているが、藪化が激しく遺構は確認できなかった。

(参考サイト:ちえぞー!城行こまい

(城址の航空写真)

(城址地形図)

 

(【左写真】本丸跡(神代神社) 【右写真】本丸土塁跡 

(本丸と二の丸の空堀跡。左側が本丸。)

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