館山城

里見氏八代・義頼は岡本城を居城としていたが、北条氏の圧迫、正木憲時の謀反により岡本城も危うくなってきたため館山に新城の着工を開始。義頼が病没すると子の義康が跡を引き継いで完成させ、天正十八年(1590)に移り本拠とした。

里見氏は小田原の役で豊臣方への参陣が遅れたため安房一国・9万石に減封されたが、関が原合戦では東軍につき3万石を加増した。しかし十代・忠義のときに岳父・大久保忠隣事件に連座して改易されて、城は破却された。

忠義は伯耆国倉吉に流されて29歳の若さで病没。里見氏は断絶して歴史から姿を消した。里見忠義が倉吉で病没すると主君の墓前で8人の家臣が殉死した。現在、その遺骨は館山に迎えられ、館山城跡の南面に眠っている。この話をもとに滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を書いたという。

城跡は堀跡や曲輪跡が残り、犬山城を模した模擬天守が建つ。

 

【左写真】模擬天守 【右写真】本丸城址碑

 

 【左写真】天守閣からの眺望 【右写真】腰曲輪

 

 【左写真】鹿島堀跡 【右写真】空堀跡

 

 【左写真】八遺臣の墓 【右写真】城址遠望

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