手賀城

手賀城(千葉県柏市手賀字城内)は、手賀沼の南岸湿地帯に突き出た標高19mの台地上にある。したがって沼を隔てて我孫子台地を一望できる(『日本城郭大系』)。

城主は、千葉介勝胤の子・原筑前守胤親と孫・原内蔵助久胤が、600貫で居住したという。その後、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって、落城したとされる(『日本城郭大系』)。なお、久胤は天正六年(1578)に歿したと伝わり(『東葛飾郡誌』)、その後、同氏は徳川家康の旗本の与力として登用されたという(『日本城郭大系』)。

現存する城郭遺構をみると、土塁・空堀から一郭だけが判明し、二郭目は興福院の境内となっている(『日本城郭大系』)。城域は、さらに広かったと思われるが、宅地化の進展によって、多くが削平・改変されたり分断されたりして破壊され、元の形態を失っている(『東葛の中世城郭』)。

興福院には城址を示す棒碑が立っており、その北側の台地先端部の耕作地に城址石碑がある。しかし、多くは住宅地となっており、明確な遺構を探すのはなかなか困難であろう。

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

(【左写真】郭のひとつとされる興福院。【右写真】境内に立つ棒碑。)

 

(【左写真】耕作地の中に立つ城址石碑。【右写真】城址遠望 )

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