大野城
御門城とも。 市川市大野3丁目の「城山」の一帯には、御門・殿台・馬寄場・根古屋などの中世城址をしのばせる地名が残っている。しかし、当城の史料は皆無で、地域に残る伝承では、関東を征服しようとして、天慶の乱を起こした平将門が、下総国西南部を鎮圧するために築いた城で、大野一帯は乱の後、将門配下の将兵によって開墾された土地であるという(『東葛西郡誌』『市川市教育委員会・現地説明板』)。 また、一説に太田一族の居城であったとか、曽谷城の曽谷氏に関するものともいわれる。 昭和四四年に市立第五中学校、五四年に第五中学校と大柏小学校の一部が発掘調査され、天慶の頃(938-947)の将門伝説と結びつけるのは無理で、中世戦国時代に相当する城址ではないかとされている(『市川市教育委員会・現地説明板』)。 遺構は、市立第五中学校付近に空堀や土塁が残るようで、城域はさらに広く浄光寺や本将寺、大柏小学校まで含まれると考えられる(『日本城郭大系』)。 (参考サイト:余湖くんのホームページ 帝國博物学協会城郭研究部 城郭図鑑) |
(【左写真】市立第五中学校 【右写真】市立第五中学校校門脇に建つ城址碑)
(現地説明板)
(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図)