土気城

聖武天皇の神亀年間(724727)に鎮守府将軍・大野東人が蝦夷の軍事的拠点として築かれ、当時は貴船城と呼ばれた。

鎌倉時代、千葉氏の一族・相馬胤綱の次子・土気太郎が土気荘の地頭に任じられ居住した。室町時代には畠山重康の居城であったが、長享二年(1488)に原氏の支援をうけた酒井定隆によって攻略された。定隆は長子・定治に土気城を譲り、自らは三男・隆敏と共に東金城に移った。以後百年にわたって酒井氏の本拠となる。酒井氏の出自は新田源氏説、藤原秀郷説など諸説あって定かではない。

戦国時代の酒井氏は北条・里見の二大勢力の間で揺れ動くが、最終的に北条氏に帰順。小田原の役で城主・酒井康治は小田原城に籠城。開城後に土気城も豊臣方の浅野長政に明け渡し、その後に廃城となった。

本丸跡に日航研修センター(閉鎖中)があるため立ち入ることができないが、二の丸・三の丸・空堀などの遺構が比較的良好に残っている(空堀は藪化が激しく撮影不可)。「クラン坂」と呼ばれる本丸横の空堀があり見所の一つ。

 

(現地縄張図)

 

(【左写真】本丸跡(日航研修センター) 【右写真】二の丸跡(空地))

 

(【左写真】三の丸跡(畑) 【右写真】三の丸土塁跡)

 

(【左写真】クラン坂 【右写真】貴船大明神(馬出曲輪跡))

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