佐倉城

天文年間(153154)、千葉親胤が一族の千葉(鹿島)幹胤に築城を命じて着工を開始した。当初は鹿島城と呼ばれ戦国時代の千葉宗家の本拠・本佐倉城の支城であったが、輔胤が死亡すると築城が中断。邦胤の代に築城を再開するが、邦胤が家臣に暗殺されて未完のままであった。

慶長十五年(1610)徳川家康の重臣・土井利勝が佐倉に封ぜられ、三層の天守を伴う近世城郭に大改修して佐倉城と改めた。佐倉城は江戸東方の要衝として重要視され、幕府老中などの要職についた人物の多くが城主となった。

城跡は城址公園としてよく整備されている。三の丸・二の丸・本丸の間に壮大な空堀が残り、本丸周囲を空堀の深さに比例するような高い土塁が囲む。かつては本丸に御三階櫓を含む3つの櫓と2つの城門が建っていたが、また椎木曲輪(侍屋敷)跡に国立歴史博物館が建ち、付近に復元された馬出し空堀が残る。明治になると城内に陸軍が設置され、建物群の老朽化が激しかったため全て取り壊されたという。古写真を見る限り立派な櫓や城門で、特に本丸の銅(あかがね)櫓は太田道灌が江戸城内に建てたものを移築したという伝承がある。復元を期待したい。

(現地案内図)

 

(【左写真】本丸天守台跡【右写真】台所門跡から見た本丸)

 

(きれいに復元された馬出し空堀)

 

(【左写真】二の丸跡 【右写真】三の丸跡)

 

(【左写真】三の丸空堀 【右写真】出丸遠望)

 

(【左写真】一の門跡付近の土塁 【右写真】一の門古写真)

 

(【左写真】二の門跡地 【右写真】二の門古写真)

 

(【左写真】三の門跡地 【右写真】三の門古写真)

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