『朝倉始末記』

  (日本合戦騒動叢書

著者不詳
藤居 正規 現代訳

勉誠社 刊

平成6年6月20日(初版)
266ページ 2,660円

評 価
★★★★★

訳者藤居正規(ふじい・まさのり)氏は 1924年、大分県生まれ。東京工業大学卒。元福岡造船且ミ長、技術士(船舶部門)。

『朝倉始末記』は、越前の戦国大名朝倉氏の興亡記。全8巻。著者および成立年代未詳。朝倉氏の発生から天正元年 (1573) 年八月、朝倉滅亡までを記す。朝倉氏と足利氏、織田氏との関係、加賀国・越前国の一向一揆に関する記事を主とする。
賀越闘諍記』と『越州軍記』から成り、朝倉氏滅亡間もない頃、朝倉氏旧臣によって書かれたものと考えられる。台頭期に朝倉氏を修飾する改竄のあるほかは比較的正確である(水藤真氏『日本大百科全書』)。

『朝倉始末記』を通読すると、朝倉一族の有様が目に浮かぶようであった。
朝倉氏勃興期から朝倉宗滴時代に関する記事は、脚色されている感があり、信用を置きがたい点もあるが、そのほかは具体的で詳細な記録となっており、あえて改竄する必要のないものばかりである。また武将の官途も正確らしく、ほかの史料と符合する記事も多い。
『朝倉始末記』の信憑性は基本的に高いものと感じられ、まさにリアルな朝倉氏がそこに描かれている。(朝倉義景は酷評されている)

一揆で戦死した玄任の妻、父を追って自害した青年龍崎宮千代、敵の虎御前山城に果敢に放火したものの義景から褒美の無かった竹内三助・上村内蔵助、朝倉滅亡に及び妻・子とともに自刃して「兒が淵」に投身した執木山清左衛門という老武士、美しい16歳の武士だった朝倉彦四郎とその首を取って信長に叱責された犬間源三郎長吉などなど、名もない武士たちの生き様が活写されている。

また、永禄四年(1561)四月六日、福井市三里浜で行われた犬追物において、栂の三郎右衛門吉仍(栂野吉仍、とがの・よしあつ)が「日記」(記録係ヵ)を勤めて、假屋でこれを記したという。栂野吉仍は和田庄内・栂野村を出自とする地侍といわれており、祐筆とは別に、政府公式の記録者がその時々でいたようである。

 

朝倉滅亡を決定づけた天正元年(1573)八月の刀禰坂の戦いでは、印牧能信が生け捕られて信長の前に引き出された逸話が記されている。これは『信長公記』にも書かれており、異同もあるので併記してみる。

『朝倉始末記』

印牧弥六左衛門尉何とかしたりけん。生捕りと成て引き出されければ、信長公「これは何者ぞ」と聞き給ふ。

前波吉継、「これは印牧と申す者にて御座候」と答え、信長公「これは聞き及たる者なり何としたれば其體には成たるぞ」と宣へば、印牧申す様「未明より二、三度返合い、前田・佐々・福富抔と手痛く戦ひ、勇気疲て候へば、薄手を負て候、痛手にてはをはせねども、いとふ草臥て候へば、途方に暮て如し件恥を曝候」と申す。
信長公「左にぞ尤なれ、死罪を可レ免す、早々に縄をとき候へ」と宣ふ。

印牧、聞きて「御赦免先以忝候。雖レ然、我譜代朝倉家に致奉公し候。殊に国中奉行のその名を汚したる者にて御座候。もし御免許を存命仕とも非レ可レ千年萬年齢。万事は皆空にして、一生は夢のたはぶれ也。唯疾々誅して給ひ候へ」と申す。

前波吉継、聞きて「御諚御偽りは候はじ、本領の事も更に別義は有間敷き。只畏て悉と可レ被レ申」と言えば、印牧聞て大の眼を見出し、吉継を屹と睨み、「見苦しや、和殿も朝倉譜代の者ぞかし、殊更、義景厚き恩賞を受し身也。去年こそ勘気を蒙りたれ。賢人不レ事二君仕とこそ云え、忽に其忘恩顧、今更信長殿に属する事、人にては無きぞ。各唯御恩には一刻も疾く頭を刎て可レ給と不レ惜身命」と申ければ、此上は不レ及沙汰にとて、河原へ引き出て切んとすれば、印牧申せしは、「弓取程の者を討ち捨てにする法やある。腹を伐ん」と言て脇差しを乞ふ。
即脇差しを出しければ、腹十文字に掻切、わたをつかんで四方へ投げ、「早々」と言えば、太刀取り頓て頸を討ち落しけり。

去ば生する者は必滅する習とは誰も知れとも、其期に至ては迷ふ者成に、あはれ惜き侍なり。勇士たらん者は唯角こそあらまほしけれと、印牧が心中誉ぬ人こそ無りけれ。

『信長公記』

不破河内守がうちの原野賀左衛門と申す者、印牧弥六左衛門を生捕り、御前(信長)へ参り候。

御尋ねに依って、前後の始末申し上ぐるのところ、「神妙の働き、是非なきの間、忠節致し候はば、一命を御助けなさるべし」と、御諚候。

爰にて、印牧申す様に「朝倉に対し、日比遺恨深重の事といえども、今、この刻、歴々討死候ところに、述懐を申し立て生き残り、御忠節叶わざる時は、当座を申したるとおぼしめし、御扶持もこれなく候へば、実儀も、外聞も、見苦しく候はんの間、腹を仕るべし」と申し乞ひ生害。

前代未聞の働き、名誉、是非に及ばず。

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