日野江城

日野江城跡(長崎県南島原市北有馬町戌)は、戦国大名有馬氏の居城であった。

築城は健保四年(1216)とされ、日向延岡に転風となる慶長十九年(1614)までの約400年間、城主は有馬氏であった。縄張は本丸を中心として東を二の丸、北西を三の丸とした梯郭式或いは連郭式の構造をもつ平山城と考えられ、本丸の北側には、広大な石垣が良好な状態で残されている(『城址案内板』)

築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前南部一帯21万石を領有した。また、現在の長崎県、佐賀県に十一城(といちじょう)と呼ばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配した(『城址案内板』)

13代当主の有馬晴信は天正七年(1579)洗礼を受けキリシタン大名となった。1580年、イエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立された。1582年には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」がローマに派遣され、4少年は8年半を要し帰国した。帰国の際、日野江城跡で8日間にわたる報告会が催され、完成したばかり屋敷に案内されたときの様子がイエズス会年報で次のように報告されている。「大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は、最近有馬殿の手で建てられ、見事な出来ばえとなった城郭の中にある。」(『城址案内板』)

豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、豊臣秀吉、そして、次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配するにとどまるのだが、有馬氏が行ってきた南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は有馬にヨーロッパなどから様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させることになったのである(『城址案内板』)。

平成七年度から始まった発掘調査では、鳥伏間に金箔を貼った金箔瓦が出土した。遺構では、仏教徒に対する弾圧があったのであろうか、多量の五輪塔地輪が踏石に利用されている階段遺構が検出された。また、大陸系の技術を駆使した石垣遺構が検出されたが、子の石垣は当時の国内の城郭石垣では他に例を見ない貴重な石垣である(『城址案内板』)。

本丸北側、二の丸、大手口付近に石垣が良好に残っている。しかしそれ以外は藪化が激しく、かなり放置されている。

 

(【左写真】本丸の城址石碑。【右写真】本丸跡。)

 

(【左写真】本丸からの眺望。【右写真】二の丸跡。)

 

(【左写真】二の丸の石垣は良好に残る。【右写真】広大な曲輪が残っている。)

 

(【左写真】遺構は残るが、放置された感が漂う…。【右写真】大手口付近の石垣。)

 

(【左写真】城址入口。【右写真】出土した金箔瓦〔案内板写真〕

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