角田城

永承年間(104653)伊具永衡が居館を構えたのが始まり。

戦国期には伊達氏の支配下に入るが、隣国の相馬氏との激しい争奪戦が繰り広げられる。豊臣秀吉の奥州仕置後に伊達政宗の従兄弟・伊達成実が入城するが、朝鮮の役後に政宗と不和になり出奔。角田城は政宗の命を受けた屋代景頼によって攻撃され、成実の妻子、家臣ら30名が討ち取られた。慶長三年(1598)政宗の叔父・石川昭光が入城。城の大改修を施し、以後石川氏代々の居城として明治に至る。

現在は本丸跡が角田高校で丘陵地となっており、二の丸跡が角田中学校となっている。目立った遺構は確認できなかった。

閑話休題

ここは伊達成実の悲劇の城として、是非とも足を運びたい場所。伊達成実は伊達家随一の猛将として知られているが、朝鮮出兵後に戦功に不満を感じて高野山に出奔。成実が呼び戻しの催促を拒否し続けたため、政宗は家臣・屋代景頼に命じて角田城にいる成実の妻子及び家臣30余名を討ち果たさせた。さらに政宗は成実が他家に仕官しないよう手配するが、それ以前に成実は上杉景勝からの5万石という破格の誘いを断っていたことを知る。

関ヶ原合戦直前に政宗が上杉方の白石城を攻めた際、伊達軍が籠城兵に苦戦している中、鎧・兜・馬と全身黒色の騎馬武者が敵中に一騎駆けをして窮地を救ったといい、その結果、政宗と和解し帰参を果たしたという伝説もある。

政宗は成実にとった行動を終生後悔し、後に角田城を攻めさせた屋代景頼を八つ当たり的に追放している。しかし、実は景頼とその家族を成実が手厚く保護したと伝わる。

そんな惨劇のあった角田城、今は高校の敷地となり遺構は偲べない…。高校関係者を装い、敷地内の城址碑を撮影するのが精一杯。

 

【左写真】城址碑 【右写真】登城道 

(城址遠望)

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