曽谷城

市川市曽谷3丁目21付近には、曽谷一族の居城があった。現在では台地が崩され、わずかに石井氏宅の裏庭に、土塁と空堀の一部が残されているだけで、曽谷城の全容を知ることはできない(『現地説明板』)。

曽谷城主は、千葉介胤鎮の家臣・曽谷重胤で、この重胤の孫・曽谷教信は日蓮聖人に帰依して、法蓮日礼の法号を給わり、長谷山安国寺を建立した。その後、一族の末裔である曽谷胤貞は、足利尊氏とともに九州に出陣、多々良浜の合戦で武功をあげたが、下総へ帰る途中、建武三年(1336)三河国・高橋の合戦で討ち死にし、曽谷城もこの時に落城。曽谷一族はのち、康正二年(1456)に滅亡したと伝承される(『長谷山安国寺記』『日本城郭大系』)。

この城中には曽谷殿の愛石だった「烏石」があったとされ、現在、東京都大田区大森北2丁目の盤井神社の社務所に保存されている(鈴木金堤『葛飾図志・手くりふね』、『現地説明板』)。

(参考サイト:城郭図鑑 余湖くんのホームページ

 

(【左写真】すっかり色あせた現地説明板 【右写真】土塁が残るという民家)

 

(【左写真】「烏石」を保管する盤井神社 【右写真】曽谷氏の愛蔵と伝説のある「烏石」。)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 戻る