大坂城

明応五年(1496)本願寺蓮如(第8世)が石山に坊舎を営んだのが始まり。本願寺は周囲に深い堀と高い塀、50もの出城を備えた一大城郭として戦国大名に対抗していく。

11世顕如の時、織田信長との間に11年間にもわたる石山合戦が勃発。朝廷の仲介により本願寺は紀伊に移転したが、本願寺教如が退去する際に全焼した。本願寺側がその伽藍を信長に渡すのは惜しいと自ら火を放ったという風説が一般化している。

『多聞院日記』にも本願寺側が燃亡するように仕掛けをしたと記されている。『信長公記』では伽藍を渡された後織田軍の松明の失火が原因だとしている。どちらも信憑性の高い史料だが後者が真実であろう。(『日本の名城・古城事典』『織田信長合戦全録』)

信長は甥の津田信澄・丹羽長秀に命じて本願寺の跡地に新城を築くが、本能寺の変で斃死、その遺志を継いだ豊臣秀吉が天下を握る。秀吉はこの要衝の地に大阪城を築城。その堅固ぶり、豪華絢爛ぶりは天下無双であったという。その費用は5兆円というほどの大事業であった(『大阪城歴史散策』)。

秀吉没後、嫡子・秀頼が入城するが関が原の合戦で一大名に成り下がった豊臣氏の斜陽は覆うべくもなく、大阪両陣にて落城する。その後、藤堂高虎など徳川氏によって再建されている。寛文五年(1665)に落雷で天守を再度焼失(『日本の名城・古城事典』)

大阪城公園は、大阪の中央に位置する、総面積106.7haの広大な公園で、大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財が残り、昔日の面影を伝えている。現在の天守は昭和六年(1931)に秀吉時代の天守を復興し、平成に大修復したもの。

 

(【左写真】復興天守 【右写真】本丸空堀)

 

(【左写真】本丸石垣 【右写真】内堀)

 

(【左写真】大手門 【右写真】桜門)

 

(【左写真】千貫櫓(左)と多聞櫓 【右写真】六番櫓)

 

(【左写真】乾櫓 【右写真】金蔵)

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