大多喜城
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大永元年(1521)、真里谷城主・武田信興の次男・信清が築城し、館山城の里見氏に備えた。当初は根古屋城といった。 天正十三年(1544)武田朝信のときに里見家臣・正木時茂に攻略され、以後は正木氏が城主となる。館山城の里見氏に備えた。小田原の役後に徳川家康が関東に入封すると、本多忠勝が10万石で入城。忠勝は、城を大改修して、近世城郭に仕上げた。 関が原合戦後に忠勝が伊勢桑名に転封すると、次男の忠朝が5万石で城主になる。本多氏の後に阿部氏、青山氏、稲垣氏と城主が替わり、元禄十六年(1703)に松平(大河内)氏が2万石で入城して明治に至る。 目立った遺構はないが、本丸には古絵図を元に復元された天守が総南博物館として建っている。二の丸は大多喜高校となり大手門(薬医門)と大井戸が残り、夷隅川が天然の外堀として流れている。 |

(現地案内図)

(【左写真】模擬天守閣 【右写真】本丸土塁)

(【左写真】本丸からの眺望 【右写真】竪堀跡)

(【左写真】移築薬医門 【右写真】夷隅川)